漢文読書 blog

漢文読書のためのメモ

講孟余話(旧題 講孟劄記)

(吉田)松陰先生が、どれほど孟子に私淑し、影響を受けていたかを少しだけ見てみようと、「講孟余話」を読んでみた。
手元に本がないため、国立国会図書館デジタルコレクションで、講孟余話(劄記)を検索して、「講孟余話 上」吉田松陰著、廣瀬豊訳注(武蔵野書院、1943)の頁をめくる。

いきなり先生の「気」にあてられる。

引用

講孟箚記 巻の一
第一場 乙卯六月十三日
孟子序説
 史記列伝に曰く、「孟軻は騶人なり。……(略)」
◎孟軻は騶人なり。斉の宣王・梁の恵王に遊事す。
経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おもね)らぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば道明かならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生国を離れて他国に事(つか)え給うこと済まぬことなり。凡そ君と父とはその義一なり。我が君を愚なり昏なりとして、生国を去りて他に往き君を求むるは、我が父を頑愚として家を出でて隣家の翁を父とするに斉し。講孟此の義を失い給うこと、如何にも弁ずべき様なし。或る人曰わく、講孟の道大なり、兼ねて天下を善くせんと欲す。何ぞ自国を必ずとせん。且つ名君賢主を得、我が道を行う時は、天下共に其の澤(めぐみ)を蒙るベければ、我が生国も固より其の外に在らずと。
曰わく、……(略)

(訳)
◎孟軻(もうか、孟子の名前)は騶(すう)の人である。他国である斉の宣王・梁の恵王に仕えた。
経書四書五経)を読むための根本的な意義は、聖人や賢人の言葉に追従しないことが、肝要である。もし少しでも、おもねる所があるならば、……(略)

松陰先生のこの1行目。熱い思いを感じる。
相手が聖人だろうとそのまま飲み込むなと。
この後も熱い言葉が続く。

1行目の衝撃。学而第一を思い出す。ちょっと違うような気もするけど。
肝に銘じて本を読もうと思う。

参考
国立国会図書館デジタルコレクション
「講孟余話 上」吉田松陰著、廣瀬豊訳注(武蔵野書院、1943)
凡例:
 一字下げは、孟子の原文及び朱熹集注の抄録
 ◎は、松陰先生の孟子原文からの引用
 その次が松陰先生の講義文。